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岸 幸太 / Kota Kishi

※写真は参考作品です。出品作品とは異なる場合がございます。
※Photos are for reference only. Actual artworks on display may vary.

作家情報 / Artist Information

岸 幸太

岸 幸太

1978年 千葉県生まれ
2003年 東京ビジュアルアーツ写真学科卒業
2012年「釜ヶ崎ーひなた、彼方」、photographers’ gallery、東京
2014年「ガラクタと写真」、photographers’ gallery、東京
2014年「GAREKI Heart Mother」、KULA PHOTO GALLERY、東京
2015年「VOCA展2015現代美術の展望ー新しい作家たち」、上野の森美術館、東京
2017年「ガレキハウス伊江島」「ベトナム通りの」、photographers’ gallery、東京

岸幸太は、社会の中で無視される「傷」や「痛み」と常に向き合おうとする写真家です。2005年から東京の山谷、横浜の寿町、大阪の釜ヶ崎を繰り返し撮影しており、近年では撮った写真を印画紙にプリントするだけでなく、新聞紙や廃材などを使って制作するなど表現の手法に広がりをみせています。ジョシュアツリーの奇妙な形と呼応するかのような不思議なプリントは露光された印画紙にスポンジを使い直接、現像液を塗布する方法で制作されている。

Kota Kishi
 
1978 Born in Chiba
2003 Graduated from Tokyo Visual Arts College, Photography 
2012 “Kamagasaki : Hinata,Kanata“ photographers’ gallery(Tokyo,Japan)
2014 “Garakuta to syashin“ photographers’ gallery(Tokyo,Japan)
2014 “GAREKI Heart Mother“ KULA PHOTO GALLERY(Tokyo,Japan)
2015 “The Vision of Contemporary Art 2015“ The Ueno Royal Museum(Tokyo,Japan)
2017 “GAREKI house Ie Island“ “Vietnam street “ photographers’ gallery(Tokyo,Japan)
 
Kota Kishi is a photographer who always tries to face “scratches” and “pain” neglected in society. Since 2005 he has been photographing slum districts such as Sanya in Tokyo, Kotobukicho in Yokohama, and Kamagasaki in Osaka. In recent years he has expanded his artistic practice to include work with newspapers and found materials as well as photographic works. His unique prints as if to respond to Joshua trees’ unique shapes is created by applying developer with a sponge on exposed photographic papers.

推薦者 / Selector

土屋 誠一 / Seiichi Tsuchiya

美術批評家/沖縄県立芸術大学准教授

[推薦者コメント / Comment by Selector]

写真家である岸は、ストリートスナップから始まり、例えばいわゆる「ドヤ街」などを撮影したりなど、様々な被写体をカメラで捉えつつ、けれども一般的な印画紙のみならず、エフェメラルな既に印刷された古紙や、そもそも紙ですらない平坦な物体などに、そのイメージをプリントするという作業を行ってきてもいる。今回は、彼の極めて風変わりな取り組みのひとつであり、3.11以後に海岸に漂着する雑多な物体を岸本人が組み上げ、それを写真に撮影する(ゆえに、組み上げられた作品は残っているわけではない)というシリーズが出品されているはずだ。肯定的に理解すれば、東日本大震災での死者への弔いと見做すこともできようが、他方で、単に漂着した物体を楽しげに組み上げることのみが自己目的的であり、ほぼ意味をなさないトーテム(だから正確に言えばトーテムですらない)のようにすら見える。よく観察すれば、ラウシェンバーグのコンバインや、あるいは、接続詞のみで作品を成立させる管木志雄の作業などを想起させる。この岸の試みが、一体どういう「効果」を「社会」にもたらすのかはわからない。しかし、震災後に病につかれたように、芸術の社会に対する有用性を必死になって示そうとしている(しかも、内心責任を取るつもりも恐らくないであろうような)一群の試みよりも、はるかに芸術家として誠実な態度であることは言うまでもなく、このような無為な組み立て作業が、いわば「喪の作業」として捉えらるようなポテンシャルを秘めていることには、注目してもらいたいと思う。